教育に体罰は必須。犯罪抑止力のためにも復活させるべきだ。傲慢な生徒を増やさないためにも。いじめを減らすためにも。
剣道20年やってた感触として、武道やってると礼儀正しくなるのではなく、人より強いという感覚を得ると傲慢で傍若無人になりがちなので礼儀をセットで教え込まないといけない、というのが正しいと思える。教わった先生はみんな本当に人格者で優れた指導者だったのだけどそれは本人の努力に過ぎない。
— Yanace (@yoh7686) 2018年3月14日
このツイートに対する意見
僕は空手をやってましたけど、たしかに人より強い感覚をえて傲慢になる瞬間がまったくないといえばそんなことはなかろうが、1000%自分よりはるかに強い人が身近にいるわけで、そんなつまらない傲慢はたちまち文字通りボコボコにされることになる。 いやでも謙虚にならざるを得ない仕組み
「武」の達人全てが人格者ではないと言う事でしょうかね。決して武道を否定するものではなく、「武」は技術「道」は精神と理解しています。技術はある程度教え教わることが出来ても精神は本人次第のところが多分にあるのだと思います。
私がその内容について賛同するとまでは言いませんが 剣道を通じて人間を見る中で、一つの自らの答えを出したのは素晴らしいことだと思います 自分の答えを大事にし、同時に他の意見も存在して当然と思いましょう 正直、リプみてると人格形成を語る人が、人格形成できてなくて呆れてます
仰る事分かる気がします。礼儀を当然の物と言うのは簡単です。実際は難しく、傍若無人に向かう方が武道家におられますね。だからこそ、意識して礼儀のなんたるかを、考えながら伝えていく事が、大事なんだと思います。
「目の前の相手をいつでも殺せると思うんとおおらかな気持ちになれる」とドランクドラゴンの鈴木が言ってましたね
剣道昇段審査の筆記の内容にも、「剥き出しの闘争本能を人間として制御する為に、剣道における礼はとても大切である」とありますしね。
私は礼儀作法を習わなきゃ竹刀握れませんでした笑笑 私は今は剣道引退していますけれど、剣道やっている人で傲慢な方も結構見かけたので結局は武道やっても根の所は変わらないと思います…
少し違うような、、 剣道では「力」と「力を制御する力」をセットで鍛える感覚で。 強さだけを身につけても自身の「力」に魅了され、振り回されるだけで、それでは結局「力の下僕」に過ぎません。 「力」を制御し、本当に必要なことに役立てられて初めて「力を従える」ことになる、かと
元々ただの戦術体系に過ぎなかった古武道が明治維新後の文明開化で廃れてきたので、関係者が生き残りを模索するなかで「人格形成」という教育方面にシフトしたのが現代武道の成り立ちなので、人格云々はまぁ後付けと言えば後付け何ですよね。
勝ち負けが関わる事は本能に繋がりますので、鍛える事は、品格の修練とワンセットにしないと、稲村亜美の始球式に群がったアホ野球中学生達のようになると思います。
貴方は剣道の理念を知ってますか? 知らずにやっていたのなら残念。 自分の剣友会では、稽古終了、黙祷、礼のあと、必ず暗唱していました。 剣道は強い弱いだけじゃない。 剣道は剣の理法の修練による、人間形成の道である。そして剣道修練の心構えも覚えておいて下さい。
武道だけでなく他のスポーツもそうですね。体育会系の学生は大体傲慢で学生時代はあまり好きではなかった。そうでない人もいましたが少数。一般的に体力がついたら自信過剰になり傲慢になるので礼儀や道徳を合わせて教えないといけないと思いますが、なかなかむつかしいでしょうね。
僕の意見
上には上がいる。武道だけでなく、スポーツを本気でやっていれば、それがわかる。否応なしにわかる。
そういうのがわかるから傲慢な態度をとっているのが恥ずかしくなる。自分はまだまだなのに自惚れて傲慢な態度をとっているのが恥ずかしくなる。
と、考えることができる人が謙虚になることができる。
でも、残念ながら武道やスポーツを真剣にやっている人全員がこういう考え方ができるわけではない。
中には武道をやっていて強くなった自分に酔い、自惚れ、他人を見下す人がいる。見下すだけでなく、その力を使って、他者を利用しようとする人もいる。フリーザのように他者をこき使おうとする人がいる。実際にこき使う人もいる。
武道は人をフリーザーみたいにする可能性がある。どんな優れた指導者がいてもフリーザーみたいな人間は出てくる。
これが教育の難しいところだ。調子にのった奴をぼこぼこにするシステムがあれば、フリーザのような人間が出てくる可能性はかなり低くなるのだが、日本の教育は体罰が禁止されている。だから調子にのった奴をぼこぼこにすることができない。
そういう体罰禁止の環境だからフリーザー的人間が増長する。どれだけ調子にのってもぼこぼこにされないから増長しまくる。
増長した人間は弱い者を食い物にする。
僕は調子にのった奴をぼこぼこにするという意味の体罰は必要だと思う。教育の一環として。そうしないと武道を習って増長したフリーザのような人間が増える気がする。
調子にのった奴はぼこぼこにされる。そういうシステムが必要だと僕は思う。
体罰は良くないものだと僕は思う。でも必要なものだと思う。バカな人間の行動を抑止する意味で必要だと思う。
そもそも調子にのらなければ体罰を受けなくてすむのだ。
体罰自体が間違ったことをした場合、実行されるものだ。
ルールを守っていれば実行されることのないものだ。
刑罰といっしょだ。刑罰だってルールを守っていれば実行されることはない。
ルールを破ったものだけが刑罰を受けるのだ。
体罰だってそれと同じだ。ルールを破ったものだけが罰を受ける。調子にのって過ちを犯したものが罰を受ける。
それだけのことだ。刑罰も体罰も過ちを犯したときだけ実行されるものだ。
それを禁止にするからバカが増長する。
死刑制度と同じように馬鹿を抑止するために体罰は残すべきなのだ。
それなのに教育から体罰をなくしてしまった。
結果、増長したフリーザのようなバカが大量に生まれた。
武道の世界だけでなく、義務教育の世界にもバカが大量に生まれた。バカな生徒が大量に生まれた。そういうバカな生徒がいじめをしたり、かつあげをしたり、先生を冒涜したりした。
体罰がなくなったせいで増長したバカが増えたのだ。
そういうバカを減らすためにも体罰は必要だ。
そう僕は思っている。
刑罰が犯罪抑止になるように、体罰もある種の犯罪抑止になる。
他人を支配したり、いじめたり、先生を冒涜したりする行為はある種の犯罪だ。そういう犯罪行為を体罰は抑止できると思う。
フリーザー的人間の犯罪行為を少しでも減らすためにも体罰は必須だと僕は思う。
残念ながらこの世の中には言葉を尽くしても行動を改めることができない人間がいる。
そういう人間の傍若無人さを少しでも減らすためにも体罰は必須だと僕は思う。
●コンビニ店員に泣きながら「いじめられている」
埼玉県鶴ヶ島市で昨年11月、市立小6年の女児(当時11歳)が自宅2階から飛び降り自殺したとみられる問題で、第三者委員会「いじめ問題調査審議会」(会長・渡辺祐樹弁護士)は27日、「女児に対するいじめの事実があり、いじめと死亡の関連性はあった」とする調査報告書を浅子藤郎・市教育長に答申した。
報告書によると、女児は5年生の9月頃からクラスの多数の児童に悪口を言われたり、ばい菌扱いされたりするいじめを受け、担任が児童らを指導。6年生のクラス替えで沈静化したように見えたが、同じクラスの女児2人から、筆箱や定規を買わされたり、カラオケの代金や飲食代を払わされたりしていたという。
亡くなる直前の11月15日には、女児2人のうち1人に「自殺したい」と告げると、通話アプリ「LINE」で自殺に追い込むようなやりとりがあった。同日にはまた、コンビニでお菓子などを買わされ、店員に「いじめられている。意地悪をされている」と泣きながら話したという。
こういう悲劇を失くすためにも体罰は必要なのだ。
馬鹿が増長しないように、馬鹿が馬鹿なことをしないようにするために、馬鹿がより馬鹿なことをしないようにするために、体罰は必要なのだ。
暴力に対抗するには暴力しかない場合があるのだ。言葉でわからないような人間に痛みをわからせるためには暴力(体罰)しかない場合があるのだ。
暴力は悪いことだとわかっている。でも、暴力がない世界なんてありえない。人がいるかぎり暴力は存在しつづける。そんな世界で暴力を否定して、言葉や教育だけで問題を解決しようとするのは不可能だ。
不可能だとわかっているから刑罰というものが存在しているのだ。暴力を振るえば自分も暴力を振るわれるぞという認識を人の中に植えつけるために存在しているのだ。
それなのに教育現場では暴力を否定し、言葉や教育だけで問題を解決しようとする。そんなこと不可能なのに言葉や教育だけで解決しようとする。痛みを伴わない方法で解決しようとする。
そんなぬるいやり方で馬鹿を更生させることなんてできないのに。できないからいじめは繰り返されているというのに。その甘いやり方を変えようとしない。
だから馬鹿が増長する。増長し続ける。増長し、自分より弱い者をいじめたり、利用したりする。そして弱い者を追いつける。最悪、命を絶つ者も現われる。それが毎年のように繰り返される。甘いやり方のせいで繰り返される。痛みのないやり方のせいで繰り返される。
いい加減、今のやり方では馬鹿を更生させることはできないことを教育者たちは悟るべきだ。そうすれば体罰が必要なことがわかるはずだ。
馬鹿には体罰が必要。そうしなければ弱者を利用して、自分の欲望を満たす馬鹿は減らない。
そう僕は思っている。
暴力を振るって自分の欲望を満たすような下劣な人間には暴力の怖さ・痛さというものを徹底して教えるべきだ。自分が他人にどんな痛みを与えているか、どんな傷を負わせているか、どんな屈辱を感じさせているか、身をもって体験させるべきだと思う。
馬鹿にも人権がある。
そう言う人がいるかもしれない。確かに馬鹿にも人権はある。でも、馬鹿は平気で他人の人権を侵しているのだ。人権を侵し、他人を傷つけているのだ。傷つけて自分の欲望を満たしているのだ。
そんな奴の人権が守られるなんて不公平だし、理不尽だ。被害者のほうは人権を馬鹿にさんざん侵されたのに、馬鹿は人権が守られるのはどう考えても不公平すぎる。
だから公平を期すために馬鹿の人権も侵されるべきだと僕は思う。馬鹿に人権を侵される痛みをわからせるためにも馬鹿の人権は侵されるべきだと思う。
そうしないと馬鹿は自分がした人権侵害の痛みをわからないまま一生を終えてしまう。
そんなの不公平だ。
被害者は一生、人権侵害された痛みを忘れずに生き続けるのに、加害者は人権侵害の痛みをわからないまま生きるなんてどう考えても不公平だ。
人権が平等に与えられた権利だというなら、人権侵害の痛みも平等に与えるべきだと僕は思う。それが本当の平等なのではないかと僕は思う。
なのに今の社会は人権侵害をした加害者が人権侵害の痛みを知らずにのうのうと生きられる社会になっている。
そんな社会間違っている。
人権侵害をした加害者にも同じ痛みを与える。それが公平な社会というものではないかと思う。
そんな公平性がないからいつまでたっても人権侵害をした加害者が得をする理不尽がなくならないのではないかと思う。
体罰を否定し、馬鹿を増長させるやり方を続けるかぎり、そんな理不尽が繰り返される。
そう僕は思っている。
だから体罰を一刻も早く復活させるべきだと思う。
馬鹿をこれ以上増長させないために。人権侵害される被害者をこれ以上増やさないために。暴力は許されない社会だということを馬鹿にわからせるために。
※追記
「モンスターチルドレン」が増えているらしい。
先生を馬鹿にする言動を繰り返す生徒のことをモンスターチルドレンというらしい。
『先生は僕を殴るとクビになるんでしょ』『殴れる?』と挑発する生徒。親や管理職などより強い立場にある者に言い付けると脅す生徒。
授業中に机の上に立ち上がり、降ろそうとする教諭に殴りかかったあげく、「僕が落ちて死んでもいいのか」と怒鳴り返す生徒。
注意すると『うるせぇなぁ。やってらんねぇよ』『家でもこうだもん』『小さいころからこうだもん』と反抗的な態度をとる生徒。
こういう生徒のことをモンスターチルドレンというらしい。
そしてこういう生徒が増えているらしい。
こういう生徒が増えているのも体罰がないせいだ。罰則がないから馬鹿な子供が増長して反抗的な言動をとるのだ。先生を見下した発言をするのだ。大人を舐めきった言動を繰り返すのだ。
悪いことをしたら罰を受ける。体罰を受ける。そういう社会にしないとモンスターチルドレンという馬鹿な子供がこれからますます増えるだろう。そしてそういう馬鹿な子供がいじめをするのだ。いじめをして弱い者を傷つけるのだ。
いじめを少しでも減らすためには体罰は必須だ。体罰がダメだというならきちんとした罰則が必要だ。たとえば子供が馬鹿な真似をしたらその親が罰金を払うというような罰則を作る。そうすればかなりの数の馬鹿子供が更生するはずだ。
交通ルールを破れば罰金を払うように子供がルールを破れば罰金を払うシステムを国が作れば確実に馬鹿の数は減るはずだ。
なのに国はそういう罰則を作ろうともしない。地方自治体もそういう条例を作ろうともしない。馬鹿な子供が罰を受けない社会を変えようとしない。
そのせいで馬鹿な子供の数が減らない。逆に増える。増えつづける。
いい加減、馬鹿な子供が得をする社会を変えてほしいと思う。きちんと馬鹿なことをした子供が罰せられる社会にしてほしいと思う。真面目に生きている子供が理不尽な目に遭わない社会になってほしいと思う。
でも、まだまだそういう社会はやってきそうにない。
子供に甘い社会であるかぎり、そんな社会はぜったいにやってこない。
子供のうちから悪いことをすれば罰を受けるというルールが徹底されないかぎりそういう社会はぜったいやってこない。
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