【名言】『渡辺和子』「置かれた場所で咲きなさい」の著者が残した言葉

渡辺 和子(1927年2月11日 – 2016年12月30日)は、キリスト教カトリック修道女 (修道女名:シスター・セント・ジョン)。 学校法人ノートルダム清心学園理事長。北海道旭川市生まれ。

18 歳でキリスト教の洗礼を受け、聖心女子大から上智 大学大学院修了。 29 歳でナミュール・ノートルダム修道女会に入会。 ボストン大学院で博士号修得。

2012年に発売した著書『置かれた場所で咲きなさい』が、200万部を超えるベストセラーとなった。

2016年12月30日、膵臓癌により死去。89歳没。

渡辺和子の名言

何かを失うと言うことは、別の何かを得ることでもある。今日より若くなる日は無い。今日という日を私の一番若い日として輝いて生きて行こう

 

ほほえみを忘れた人ほどそれを必要とする人はいない。相手の出方に左右されることなく私の人生を笑顔で生きるという決意

 

一生の終わりに残るものは、自分が集めたものではなく、自分が与えたもの

 

つらい日々も、笑える日につながっている

 

ほほえみには、私たちの心の中にある目には見えない愛を、目に見える形にして相手に伝えるコミュニケーションの役割があるといえます

 

ほほえむことを忘れた人たちに、ほほえみを惜しまずに与えましょう。「あなたは1人ぼっちでない」というメッセージを発信し続けましょう。ほほえみには、マジックのような力があります。与えられた人を豊かにしながら、与える人は何も失わない ― それがほほえみなのです

 

「自分と仲良く生きる」といい。好きな自分と四六時中一緒にいる人は、自然と笑顔が多くなり、言葉から刺がなくなり、相手の言葉をふんわりと受け止めることができるようになるから不思議です

 

目立たない仕事をしている人へのあいさつを忘れてはいけない。私たちはお互いに「おかげさま」で生きているのだから

 

人間は寂しさの中で成長します。寂しさを感じない時には気づかなかった自分の無力さと限界を知り、他人と自分の間に横たわる必然的な距離について考察するようになります。寂しさの苦杯をなめて、はじめて、他人もまた味わっている孤独感へのやさしいいたわりの心を育てることができるのです

 

いつまでもおぼえていたらとても辛いだろうと思ういろいろなことを、ありがたいことに私たちは忘れることができる。そして、時間というお薬があるんです

 

女性が、一日の間に鏡をのぞきこむ回数ほどに、自分の心をのぞきこみ、内省し、心の手入れを怠らなかったならば、どんな高価な化粧品や装身具も与えることができない美しさが、いつしかその人に備わることでしょう。それは年とともに色あせるどころか、むしろ深まっていく「美しさ」なのです

 

今という瞬間は、今を先立つわたしの歴史の集大成であると同時に、今をどう生きるかが次の自分を決定するということです。人生は点のつながりとして一つの線であって、遊離した今というものはなく、過去とつながり、そして未来とつながっているわけです

 

数多い出会いがあっても「自分」というものがしっかりしてさえいれば それらの影響に流されることなく むしろ、それらを通して自分というものが鮮明になってきます

 

どんなに忙しくても、いや、むしろ、忙しいからこそ、一日の中、5分でも、10分でも静かな時間、一見「無駄な時間」をつくらなくてはいけないのです

 

神様は私たちの「願ったもの」よりも、幸せを増すのに「必要なもの」を与えてくださいます。それは必ずしも自分が欲しくないものかもしれません。しかしすべて必要なものなのだと、感謝して謙虚に受け入れることが大切です

 

人生はいつもいつも第一志望ばかりを歩けるものではありません。そして必ずしも、第一志望の道を歩くことだけが、自分にとって最良と言えないことだってあるのです

 

一生の終わりに「残る時間」、無駄に過ごさなかった時間を多く残すためには、小さなことに愛を込め、意味あるものとしていかなくてはなりません。それこそが「新しい生き方」なのです

 

この世に「雑用」という用はありません。私たちが用を雑にした時に、雑用が生まれます

 

いのちは大切だ。と、言われるより、あなたが大切だ。と、言われた方が生きてゆける

 

いい出会いをするためには、自分が苦労をして出会いを育てなければならない

 

信頼は98%。あとの2%は相手が間違った時の許しのために取っておく

 

折あることに子どもたちをしっかり抱きしめて、基本的信頼を持たせるようにしましょう。そうすれば、大きくなって厳しい現実に直面し、人間の弱さに否が応でも触れざるを得なくなった時も、絶望することなく、98パーセントの信頼と、2パーセントの許しの余地を持って、たくましく、優しく生きてゆくことができるでしょうから

 

仏頂面をして、他人の暮らしまで暗くする権利はない。不機嫌は、立派な環境破壊

 

不要な枝葉を切り落とし、身軽になること。維持や執着を捨てて素直になること、他人の意見に耳を傾けて謙虚になることが成熟ということ

 

大切なのは「人のために進んで何かをする」こと。「人に迷惑をかけない」からもう一歩進んで、「手を差し伸べる」気持ちが愛の実践につながる

 

愛情の深さと歳月は比例しない。たとえどんなに短くても、本物の愛は心を充分に満たしてくれる

 

愛は信じ合っている時、美しい

 

愛にも成長がないといけない。それは、一体化を願い、相手の心の中、相手の世界を知り尽くしたい、という愛から、徐々に脱皮してゆくことである

 

しかし女性を美しく、好もしくするものは、昔も今も変わることなく、温かいほほえみ、美しいことば、さり気ない心配り、礼儀正しさ、そして恥じらいを知る慎みと覚えておきたいものである

 

私は木を切るのに忙しくて、斧を見る暇がなかった

 

愛するということは生半可なことではなく、愛し続けるということなのです

 

大切なものは目に見えない。肝心なことは心の目で見なくちゃ見えないんだ

 

私たちの毎日毎日は、後戻りすることができない、やり直しのきかない人生だという感覚で生きることが大事なのです

 

何かをなさっている時にフッと思い出して、「ああそうだ、これをあの人のためにしよう」と思ってください。

 

愛はそれが純粋であればあるほど、苦しみを伴う

 

好きな人は愛しやすいが、嫌いな人の価値を認めるためには、時に英雄的な努力を必要とすることがある

 

「しかたなしに」愛することほど、愛に対する侮辱はありません

 

心の美しさは、自分の心との戦いによってのみ得られる

 

大切なのは宝石に見せかけることではなくて、宝石になる努力を惜しまないことだ

 

なにを愛するか、いかに愛するかということは死ぬまでの課題である

 

「化けかた」は教えても、中身からの美しさを教えない

 

その人が、死後も「自分のもの」と呼べるもの、その人とともに永遠に残るものは、生存中に「与えたもの–愛」なのだ

 

愛するということは、大切にするということである。丁寧に生きるということと深くかかわっている

 

愛によってのみ「見える」ものが世の中にある

 

美しさというものは、修行を必要とする

 

今や、変えられるものを変える自由が与えられている。必要なのは勇気である

 

もしあなたが、誰かに期待した微笑みが得られなかったら不愉快になる代わりに、あなたの方から微笑みをかけてごらんなさい。実際微笑みを忘れたその人ほど、あなたからの微笑みを必要としてる人はいないのだから

 

人は皆、苦労を厭い、面倒なことを避け、自分中心に生きようとする傾向があり、私もその例外ではありません。しかし、人間らしく、よりよく生きるということは、このような自然的傾向と闘うことなのです

 

深い悲しみにも、いろんな悲しみがあると思うんですよ。でも、愛する人を失った人に、愛する人を返してあげることはできませんよね。慰めたくても、物質とかお金とか、家を建ててあげるとか、職を見つけてあげるとか、そういうことでなくて、手の出しようのない悲しみがある。そういう時には、一緒になって悲しんであげてください

 

今度は他人様(ひとさま)が憂いをお持ちの時、困っていらっしゃる時、悲しみをお持ちの時、病気をお持ちの時、その方の傍らを離れない。同伴者となる、というような言葉で表してもいいかと思います。その人の病気を治してあげるわけでも、悲しみを取り去ってあげる、問題を解決してあげるわけでないけれど、「大変ね」と言って、「でも、側にいるからね」と言ってあげる。それがほんとに優しい方のお姿じゃないかしら、と思う時があります

 

初めての土地、思いがけない役職、未経験の事柄の連続、それは私が当初考えていた修道生活とは、あまりにもかけはなれていて、私はいつの間にか“くれない族”になっていました。「あいさつしてくれない」こんなに苦労しているのに「ねぎらってくれない」「わかってくれない」

 

私は、かくて“くれない族”の自分と訣別(けつべつ)しました。私から先に学生にあいさつし、ほほえみかけ、お礼をいう人になったのです。そうしたら不思議なことに、教職員も学生も皆、明るくなり優しくなってくれました

 

自信を喪失し、修道院を出ようかとまで思いつめた私に、一人の宣教師が一つの短い英語の詩を渡してくれました。その詩の冒頭の一行、それが「置かれたところで咲きなさい」という言葉だったのです

 

置かれた場に不平不満を持ち、他人の出方で幸せになったり不幸せになったりしては、私は環境の奴隷でしかない

 

人間と生まれたからには、どんなところに置かれても、そこで環境の主人となり自分の花を咲かせよう、と決心することができました。それは「私が変わる」ことによってのみ可能でした

 

「置かれたところで咲く」この生き方は、私だけでなく学生、卒業生たちにも波及しました

 

結婚しても、就職しても、子育てをしても、「こんなはずじゃなかった」と思うことが、次から次に出てきます。そんな時にも、その状況の中で「咲く」努力をしてほしいのです

 

世界の人口を100人の割合で考えると、高等教育を受けたくても受けられる人はわずかに1人。だから、置かれた場所で咲くという気持ちを忘れず、自分が今できることを一生懸命励みましょう

 

どうしても咲けない時もあります。雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。次に咲く花がより大きく、美しいものとなるために

 

「今」という瞬間を意識して生きたいと思う。「今の心」と書くと「念」という字になると気づいた時、「念ずれば花開く」という言葉の意味がわかるように思ったものです

 

人間の幸せというものは、そして一人ひとりの人生の豊かさは、愛するものを持っているか否かにかかっています

 

遠い国々で苦しんでいる人々、見たことも聞いたこともないところで、今日、私の小さな祈りと、痛む愛を必要としている人々のために、「今」という時間に愛をこめて生きることができたら、その人の幸せは、もっと大きくなることでしょう

 

「今」をたいせつにして生きないと、花は開かない。「今」をいい加減に生きると、次の瞬間もいい加減なものとなり、いい加減な一生しか送れないことになってしまうのかも知れない

 

決して、毎瞬を緊張して生き続けるということではなくて、リラックスする時には思いっ切りリラックスするということであり、「今」に、けじめをつけて生きることだと言ってもいいのかも知れない

 

ささやかな幸せというものは、また、何か小さなことでいい、自分に課したものをやりとげた時にも味わうことができるものである

 

人間の一生の間に、大きな幸せと呼べるものは数える程しかないものです

 

結婚式当日の2人の幸せは輝くばかりのものだろうが、その後に続く日々は決してその連続ではなく、平々凡々たるものだろう。その中で幸せになるということは、小さくてもいい、「ああ、幸せ」と思える機会をふやすことにかかっている

 

信じるということは大切なこと、美しいことですけれども、悲しいことに人間の世界に“完全な”信頼はあり得ません。信じることを教えるのも教育なら、人を疑うことの必要性、単純に物事を信じてしまってはいけないことを教えるのも教育の1つの役割なのです。それは、神でない人間は、他人も自分も皆、弱さを持ち、間違うことがあるのだという事実に目を開かせ、許しの大切さを教えることでもあります

 

今、子どもたちの主体性を重んじる教育ということがよくいわれていますが、現実には、「したい性」が伸び放題になってはいないでしょうか。子どもたちが真に自由になるためには、したいことを我慢し、または自分に「待った」をかけて、しなければならないことを先にする“もう一人の自分”を育ててゆくことが大切なのです

 

私たち大人がまず、自分の「したい性」を抑えて、主体性を身につけてゆかないといけないのでしょう。人は、自分が持っていないものを他人に与えることはできないからです

 

人間はとかく、追いつめられると、目先の善に走りがちです。だから私たちは常日頃、心にゆとりを持ち、物事に優先順位をつけながら生きてゆく判断と意志の訓練をすることが大切なのです

 

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