「それでも私は諦めなかった」偉人たちの人生!

「それでも私は諦めなかった」偉人たちの人生!

○物理学者のアインシュタイン
(20世紀最高の物理学者と評された男)

アインシュタインは3歳までまともに人と話すことができませんでした。9歳になってもスムーズに喋ることができませんでした。

そのせいで、クラスメートからは「のろま」とか「ダメな奴」とか「バカな奴」などとバカにされていたんです。

子供の頃って、喋るのが得意じゃない人をバカにする奴って多いですからね。アインシュタインもその犠牲者の一人だったのです。

確かにアインシュタインは喋るのが苦手でしたし、総合的な成績も良くありませんでした。でも数学の成績はメチャクチャ良かったんです。それなのに周りの人はアインシュタインをバカにしました。喋りが下手なことをバカにしただけではなく、数学以外ダメダメなところもバカにしました。バカにしつづけました。

のちにアインシュタインはこう語っています。「私の学習を妨げたものは、たった1つ、教育である」と。そりゃ、在学中、常にバカにされ続ければ、こんなセリフを言いたくもなりますよね。

そんなアインシュタインは1895年にチューリッヒ大学を受験します。この頃のアインシュタインも相変わらず学力に偏りがありました。数学と物理は非常に良い成績だったのですが、それ以外の教科はダメダメでした。そのせいで、テストの総合点が足りず、受験に失敗してしまいました。

なんとあの天才と言われるアインシュタインも受験失敗しているんです。これは今の受験生たちに勇気を与えてくれる事実ではないでしょうか。「アインシュタインは受験に失敗したのに、歴史に名を残す人物になれたんだ。僕もたとえ受験に失敗したとしても頑張って生き続けよう」って思わせてくれる事実ではないでしょうか。

受験に失敗したアインシュタイン。だが、彼は、翌年、チューリッヒ大学に合格します。テストを受けて合格したのではありません。特例で合格が認められたのです。

なぜ特例で合格を認められたのか?それは受験時のアインシュタインの物理と数学のテストの点数がトップだったからです。それに気づいたチューリッヒ大学の校長がアインシュタインの合格を認めたんです。

1896年に無事、チューリッヒ大学に入学できたアインシュタインでしたが、大学生になっても数学と物理の成績以外はダメダメでした。まあ、ダメダメで当然なんですけどね。アインシュタインは物理と数学の授業には熱心に出席したのですが、それ以外の授業にはほとんど出席しなかったのです。だから数学と物理以外の成績はダメダメなままだったのです。

そんな数学と物理以外ダメダメなアインシュタインは、「化学の実験中に爆発事故を起こす」「学校の教師に反抗する」「授業を休む」などのダメダメな行動も繰り返していたそうです。

そんなダメダメな行動を繰り返していたアインシュタインは教授に嫌われてしまいました。そのせいで大学卒業後の就職先を紹介してもらえませんでした。

アインシュタインは就職先が決まらないまま大学を卒業しました。卒業後もなかなか就職先が見つからないアインシュタイン。彼の就職先が決まったのは卒業から2年後のことでした。就職先は特許庁。この就職先を紹介してくれたのはアインシュタインの友達でした。

特許庁はアインシュタインの才能を活かせる場所ではありませんでした。でも生きていくためには働かなければなりません。さすがのアインシュタインも2年という長い就職活動の間にそれを痛感したのだと思います。だから生きていくために自分の才能を活かせない特許庁への就職を決めたのだと思います。(※この部分はブログ主の推測です)

もし、アインシュタインが普通の人間だったなら、夢も希望もなく、ただ仕事を黙々と続けるだけのつまらない人生になっていたと思います。でもアインシュタインは普通の人間ではありませんでした。数学と物理に桁違いの情熱を持った特別な人間でした。だから死んだ魚みたい目をして働くサラリーマンのようなつまらない人生にはならなかったのです。

アインシュタインは、就職した後も、数学と物理の研究を続けました。昼は特許庁で働き、夜は研究に没頭しました。その結果、26歳のときに「光量子仮説」「ブラウン運動」「相対性理論」の3つの論文を発表しました。この発表がされた年は「奇跡の年」と言われています。そう言われるくらいアインシュタインの論文は優れたものだったということです。

それまでの物理学の認識を根本から変え、「20世紀最高の物理学者」とも評される。特殊相対性理論や一般相対性理論が有名だが、光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明によって1921年のノーベル物理学賞を受賞した。

ウィキペディアより引用

アインシュタインは「20世紀最高の物理学者」と評されるほとの成果を残したんです。子供の頃、喋りが下手ということでバカにされ続けたアインシュタインが「20世紀最高の物理学者」と評される成果を残したんです。学生時代、数学と物理以外ダメダメとバカにされたアインシュタインが「20世紀最高の物理学者」と評される成果を残したんです。

なんか感動しますよね。

アインシュタインが成功できた理由は、数学と物理という得意なことだけに情熱を注いだからだと思います。もし、アインシュタインが数学と物理以外の不得意なことにも情熱を注いでいたらおそらく「20世紀最高の物理学者」と評されるような成果を残すことはできなかったと思います。

皆さんもアインシュタインのように得意なことありますよね。その得意なことにすべての情熱を注いでみませんか?そうすればアインシュタインのような成果を残すことができるかもしれませんよ。

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○作曲家のベートーヴェン
(日本で楽聖と呼ばれた男)

ベートーヴェンは、1770年12月16日、宮廷歌手である父・ヨハンと、宮廷料理人の娘である母・マリアの第二子として生まれました。

音楽の才能に恵まれたベートーヴェンは、幼い子供の頃から父親に音楽のスパルタ教育をされることになりました。その教育が原因で一時期ベートーヴェンは音楽に対して強い嫌悪感を抱いていました。

だが、ベートーヴェンは音楽を辞めるわけにはいきませんでした。歌手だった父親が無職になり、家で暴力を振るうようになり、おまけに弟が2人もいたため、ベートーヴェンが音楽でお金を稼いで、家計を支えなければならない状況に陥っていたからです。

このときベートーヴェンは8歳。ベートーヴェンは8歳でピアノの演奏家として家計を支えなければならなくなったのです。

ベートーヴェンは、お金を稼ぐために演奏を続けました。その結果、演奏家として高い評価を得られるようになりました。

ベートーヴェンは演奏の稀にみる速さによって広く称賛されており、最も手強い困難な箇所をいとも簡単に習得してしまうことで驚きを与えている。すでに音楽の内なる聖域に入ってしまったようで、正確さ、感性、趣味において傑出している。

当時の音楽評論家の言葉を引用

と、当時の音楽評論家はベートーヴェンを評価していたんです。

やがてベートーヴェンは演奏家として評価されるだけでなく、作曲家としても高い評価を受けるようになりました。彼は1796年の時点で既に同世代の中でも最も評価される作曲家となっていました。

ベートーヴェンは既に数曲の美しいソナタを作曲している。その中で最も新しいものは、特に傑出したものと評価されている。

当時の音楽評論家の言葉を引用

20代という若さで演奏家としても、作曲家としても、高い評価を得ていたベートーヴェン。「彼の音楽人生は順風満帆!」と誰もがそう思っていたのではないでしょうか。

でも彼の音楽人生は順風満帆ではありませんでした。

20代後半頃より持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化し、28歳の頃には最高度難聴者というほとんど音が聴こえない状態になってしまったのです。

音楽家にとって耳は大事な商売道具です。音楽を続けていくためには必要不可欠と言っても過言ではないものです。そんな大切なものをベートーヴェンはほとんど役に立たなくなってしまったのです。

普通の人ならば、耳がほとんど聴こえない状態になったら、絶望して、音楽を諦めてしまうと思います。でもベートーヴェンは諦めませんでした。絶望を抱えながらも音楽を続けました。演奏家として、作曲家としての活動を続けました。

耳がほぼ聴こえないベートーヴェンは、歯でピアノの音の振動を感じ取るという方法(骨伝導)で、作曲を続けました。その結果、次々と名曲を生み出したのです。

1804年に発表した交響曲第3番が高い評価を受け、その後、ベートーヴェンの曲は10年間にわたって中期を代表する作品と言われるほどの評価を受け続けました。この評価を受け続けたベートーヴェンの10年間をフランスの作家ロマン・ロランは「傑作の森」と評しました。

その後、ベートーヴェンはピアニスト兼作曲家を辞め、完全に作曲専業になりました。

だが、ベートーヴェンは40歳の頃についに耳が全く聞こえなくなってしまいました。追い打ちをかけるように慢性の腹痛が悪化し、体調不良に悩まされることが多くなりました。時には肺炎に苛まれることもありました。それでもベートーヴェンは曲を作ることはやめませんでした。耳が全然聴こえない+体調不良の状態で作曲を続けました。頭の中で曲をイメージして楽譜に曲を書き続けました。

そしてベートーヴェンは、1827年、ベットに寝そべりながら曲を作る途中で56年の生涯を終えたんです。

壮絶な人生ですね。幼い時は父親に音楽のスパルタ教育をされ、8歳の時はダメな父親のせいで家計を支えなければならなくなり、28歳の頃に耳の障害に苛まれ、40歳の頃に耳が完全に聴こえなくなり、そのうえ体調不良に悩まされ、そんな状態で作曲を続け、曲を作りながら力尽きるなんて・・・本当に壮絶ですね。

ベートーヴェンが最後のときまで音楽を続けられたのは、本当に、心の底から、音楽が好きだったから・・・そう私は思います。だからどんな辛くても続けることができた・・・そう私は思います。

おわり

※随時更新中!また読みに来てね

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